堀場雅夫について (年譜)
1924年12月1日 | 父 堀場信吉先生(京都帝国大学教授)、母 弘子の長男として誕生 |
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1931年 (6歳) |
京都府師範学校附属小学校 入学 理数系が得意で少年時代は模型づくりに熱中していた。 |
1937年 (12歳) |
現・甲南中学・高等学校へ進学 この頃、患っていた小児リウマチの療養のため、親元を離れ神戸で寮生活をはじめる。 転地療養により、ラグビーに打ち込む程に回復する。一方で、無線クラブにも所属し電気蓄音機の増幅器の設計、 無線受信機などを製作していた。化学よりも理論がはっきりしているとして物理学、中でも原子核物理に興味を持つ。 |
1943年 (18歳) |
京都帝國大学理学部 物理学専攻入学 原子核物理研究の権威、荒勝 文策教授に師事。 |
1945年 (20歳) |
終戦 敗戦により、大学の原子核物理の実験設備が進駐軍により破壊される。 研究を続けるために自分で研究所を立ち上げることを決意する。 「堀場無線研究所」を創業 研究資金と生活費の工面に電気製品の修理や停電灯など、オリジナルの電気製品や医療機器などの製作も行っていた。 |
1947年 (22歳) | 美㐂子夫人と結婚 翌年に長男 厚が誕生 |
1949年 (24歳) |
新型コンデンサーの研究開発に着手 エレクトロニクス産業の将来は電子部品の品質が鍵を握ると考え、独学で電解コンデンサーの研究を重ねる。開発に成功し、量産化を目指した。 |
1950年 (25歳) |
国産初のガラス電極式pHメーターの開発に成功 電解コンデンサーの製造過程で必要だったpHメーターを京都大学との産学協働で開発。 電解コンデンサーの量産化に挫折 順調に量産化準備を進めるさなか朝鮮戦争が勃発し、部品の金属資材の物価が急騰。 日本のエレクトロニクス産業を変えるはずであった電解コンデンサー「アリゲーター」は量産化実現の目前で挫折。借金の返済に自作していたpHメーターを販売。これが会社創立へとつながる。 |
1953年 (28歳) |
「株式会社 堀場製作所」を創立 京都財界人の出資を仰ぎ資本金100万円、社員8名で「株式会社 堀場製作所」を創立。 |
1958年 (33歳) |
日本生産本部のアメリカ視察派遣団に参加 赤外線方式の分析技術動向調査のため初めて渡米。 |
1959年 (34歳) |
日立製作所と業務および技術提携 巨大企業にも対等な関係を求めた、連名ブランドは英語表記で後の方がメインであるため、ブランドを「日立-堀場」とした。 |
1961年 (36歳) |
医学博士号を取得 モチベーション向上に社員に博士号の取得を推奨。しかし理学博士は部下に先を越されたため、医学博士号を取得する。 |
1964年 (39歳) |
国産初の自動車排ガス測定装置を開発 後に世界シェア約80%の主力製品に。 |
1968年 (43歳) |
週休2日制を導入 いち早く導入した。労使協調の経営は、全員参加のユニークなメーデー行事などにも表れていた。 |
1969年 (44歳) |
琵琶湖に工場用地取得 この頃、週休3日制を構想。琵琶湖の景観がダイナミックで好きであった。 |
1970年 (45歳) |
米国オルソン・ラボラトリーズと合弁会社「オルソン・ホリバ社」を設立 海外進出の幕開けとなり、1970年代に国内外に多くの拠点を整備する。 現在のHORIBAグループネットワークの基礎を構築した。 |
1973年 (48歳) | 京都ロータリークラブ会長に就任 |
1974年 (49歳) |
スタンダードテクノロジ社(現 堀場エステック)を設立 ガス分析計の基準値となるガスの標準化を目指して当時は考えられない競合会社に共同出資を呼びかけて設立した。 |
1975年 (50歳) | 京都経済同友会代表幹事に就任 |
1978年 (53歳) |
代表取締役会長に就任 持論“社長50歳定年説”に従い、創立25周年式典にて大浦政弘氏に社長を譲り会長に就任する。早い社長交代は 「最高速度で走っているときに仲間を信じてボールをパスする」ラグビーから学んだことだった。 社是「おもしろおかしく」を制定 社員と共同で経営する福利厚生の専門会社 株式会社 ホリバコミュニティを設立。 京都産業情報センター(現・京都産業21)初代理事長に就任。 社長交代を機に、社会への恩返しとして公の仕事に積極的に取り組む。 |
1982年 (57歳) |
藍綬褒章を受章 長年にわたる分析・計測機器の業界発展への貢献が評価された。 |
1985年 (60歳) | 京都市ベンチャービジネスクラブ顧問に就任 |
1986年 (61歳) | 上場企業で初めて一部週休3日制を導入 |
1988年 (63歳) | 財団法人京都高度技術研究所(ASTEM)初代理事長に就任 |
1995年 (70歳) |
株式会社 堀場製作所の代表権を返上 この後、執筆、TV番組出演、講演会など多くの活動に取り組む。 |
1999年 (74歳) | 日本新事業支援機関協議会(JANBO)代表幹事に就任 |
2000年 (75歳) | 京都市ベンチャー企業目利き委員会 委員長に就任 |
2001年 (76歳) | 京都商工会議所副会頭に就任 |
2002年 (77歳) |
京都市立西京高等学校 学術顧問に就任 入学式では次代を担う若者に、自身の哲学を伝えた。 京都ナノテク事業創成クラスター 推進本部長に就任 |
2003年 (78歳) |
科学技術振興機構(JST)イノベーションプラザ京都 初代総館長に就任 この頃より、一瞬一瞬を一生懸命に生き、未来を自ら切り拓く意の「自今生涯」を好み、講演などで次世代に伝えていく。 |
2004年 (79歳) |
第1回となる「堀場雅夫賞」を開催 分析・計測分野の若手研究者を支援したいとのおもいから「堀場雅夫賞」を2003年に創設し、自費で支援金を提供し続けた。 |
2005年 (80歳) | 取締役会長を退任、最高顧問に就任 |
2006年 (81歳) |
分析化学の世界で最も権威ある「ピッツコン・ヘリテージ・アワード」を欧米人以外で初めて受賞 創業当時に研究対象としていたベックマン社製pHメーターの開発者で創業者のベックマン博士も 同賞を受けている。世界の偉大な分析化学企業家・研究者らとともに殿堂に名を連ねた。 |
2007年 (82歳) |
京都まなびの街生き方探究館 初代館長に就任 小中学生が就業や経済の仕組みを体験を通じて学ぶ施設で、この普及に努めた。 ベンチャー支援とともに教育支援にも力を尽くした。 |
2008年 (83歳) | 京都大学総長顧問に就任 |
2009年 (84歳) | 全国イノベーション推進機関ネットワーク 会長に就任 |
2010年 (85歳) |
明日の京都文化遺産プラットフォーム 理事に就任 『京の美食』委員会 代表に就任 |
2012年 (87歳) | 京都大学思修館 特任教授に就任 |
2015年 (90歳) | 肝細胞がんのため、7月14日に永眠 |